M&Aは次世代への「戦略的バトンパス」
東京商工リサーチの調査によると、2023年の「障害者福祉事業」の倒産件数は過去最多を更新しました。2024年の報酬改定も「成果主義」の色が濃くなり、小規模事業者にとっては、単独での存続が年々厳しさを増しているのが現実です。
かつてM&A(合併・買収)と言えば、「経営に行き詰まった末の身売り」というネガティブなイメージが先行していました。しかし、現在は違います。
「創業者の想いを、より体力のある法人へ引き継ぐ」
「利用者の生活と従業員の雇用を、未来永劫守る」
「創業者利益を確保し、新たなライフステージへ進む」
このように、M&Aは「攻めの事業承継」や「確実なイグジット戦略」として、優秀な経営者ほど早期に検討を始めています。
本記事では、障害福祉経営の専門コンサルタントである「福祉経営カイゼン室」編集部が、M&Aの基礎知識はもちろん、「いくらで売れるのか(相場観)」、「買い手が喉から手が出るほど欲しい事業所の条件」、そして「企業価値を高めるための経営磨き上げ」について、実務的な視点で徹底解説します。
1. データで見る障害福祉M&Aの現在地|なぜ今、再編が加速しているのか?
M&Aが増加している背景には、業界構造の変化と、売り手・買い手双方の切実な事情があります。
「小規模・単独経営」の限界と倒産リスク
障害福祉サービスは、制度ビジネス特有の「3年に一度の報酬改定」に経営が左右されます。特に直近の改定では、加算取得や質の高い支援への要件が厳格化され、事務負担が増大しました。
さらに深刻なのが「人材不足」です。採用コストの高騰や、配置基準を満たすための人件費増が利益を圧迫し、「黒字倒産」や「人手不足倒産」のリスクが高まっています。
体力のあるうちに大手グループの傘下に入り、バックオフィス業務の共通化や採用力の恩恵を受けたいと考えるのは、経営判断として非常に合理的です。
買い手市場の活況:「時間を買う」ニーズ
一方で、買い手(上場企業や地域の大手法人、異業種参入組)の意欲は旺盛です。彼らがM&Aを行う最大の理由は、「時間を買うため」です。物件確保の難しさ: グループホームや放デイに適した物件を見つけるのは至難の業です。
指定申請と採用の壁: 新規立ち上げには半年以上の準備期間と、莫大な採用費がかかります。
利用者の確保: ゼロから稼働率を上げるには時間がかかります。
「すでに箱(物件)があり、有資格者がいて、利用者も通っている」。この状態をそのまま引き継げるM&Aは、買い手にとって多少のプレミアム(のれん代)を払ってでも手に入れたい魅力的な選択肢なのです。
2. 経営者にとってのM&A(事業売却)3つのメリット
感情論を抜きにして、経営実務の観点からM&Aのメリットを整理します。
メリット1:創業者利益(キャピタルゲイン)と個人保証の解除
最大のメリットは、金銭的・精神的な解放です。
中小企業の経営者の多くは、金融機関からの借入に対して「個人保証(連帯保証)」を入れています。M&Aで株式譲渡を行えば、この個人保証を買い手企業へ引き継ぐ(または完済して解除する)ことが可能です。
さらに、売却益(創業者利益)を得ることで、ハッピーリタイア後の資金や、別事業への投資資金を確保できます。廃業してしまえば資産は二束三文ですが、M&Aなら「事業の収益力」を現金化できます。
メリット2:従業員の雇用維持とキャリアアップ
「売却したら従業員が可哀想」というのは誤解です。むしろ、経営難で突然解雇するほうが無責任と言えます。
買い手が大手であれば、給与水準の見直し、福利厚生の充実、研修制度の利用など、単独経営では提供できなかった環境をスタッフに用意できるケースが大半です。管理職ポストが増え、キャリアパスが広がることも従業員満足度につながります。
メリット3:地域インフラとしてのサービス存続
障害福祉事業所は、利用者とその家族にとってなくてはならない「社会資源」です。
廃業すれば、利用者は次の行き場を探さなければなりません(これを「福祉難民」と呼びます)。M&Aで運営母体が変わるだけであれば、利用者は慣れ親しんだ場所で、変わらぬ支援を受け続けることができます。
3. 【保存版】障害福祉事業所の「売却相場」算出ロジック
経営者が最も気になる「自社はいくらで売れるのか?」について解説します。M&Aの価格算定(バリュエーション)にはいくつかの手法がありますが、中小規模の福祉M&Aでは「年買法(年倍法)」が一般的です。
計算式:時価純資産 + 営業権(のれん代)
売却価格 = 時価純資産 + (実質営業利益 × 評価倍率)
① 時価純資産
帳簿上の資産から負債を引いた額をベースに、時価評価し直したもの。
※回収不能な未収金や、含み損のある資産は減額されます。
② 実質営業利益(正常収益力)
決算書の営業利益をそのまま使うわけではありません。
節税のために計上していた「オーナー個人の経費(私用車、交際費など)」や「過大な役員報酬」を利益に足し戻し、「本来、この事業がどれだけ稼ぐ力があるか」を算出したものです。
③ 評価倍率(年数)
ここが交渉のポイントです。一般的には「1年〜3年」ですが、以下の要素で変動します。
就労系(A型・B型): 生産活動の収益性やコンプライアンスリスクにより、1〜2年で見られることが多い。
放デイ・児発: 人気業態かつ総量規制エリアであれば、3〜5年の高値がつくケースも。
グループホーム: 夜勤スタッフの定着率や物件の契約条件により変動。
4. 買い手はここを見ている!評価額を上げる3つの「磨き上げ」
相場はあくまで目安です。「赤字でも高値で売れる事業所」もあれば、「黒字でも買い手がつかない事業所」もあります。その差はどこにあるのでしょうか?
M&Aを検討し始めたら、以下の3点を意識して経営を「磨き上げ」てください。
① 安定した「稼働率」と集客の仕組み
買い手が最も重視するのは「買収後もすぐに収益が上がるか」です。
定員に対して稼働率が低い、あるいは特定の紹介元に依存していて不安定な事業所は、ディスカウントの対象になります。
逆に、「Web集客や地域連携が機能しており、常に待機者がいる状態」であれば、営業権(のれん代)は跳ね上がります。「集客力」こそが、もっとも高く売れる無形資産です。
② 隠れ負債のない「コンプライアンス」
福祉業界のM&Aにおいて、最大のリスク要因は「実地指導による返還金」です。
買い手は、買収後に「実は不正請求をしていました」と発覚し、指定取り消しになることを極端に恐れます。
サービス管理責任者の配置基準、加算の算定要件、個別支援計画書の整備状況など、法令遵守が徹底されていることは、高値売却の必須条件です。
③ 「属人化」していない組織体制
「社長(売り手)がいないと現場が回らない」という状態では、売却後に事業が崩壊してしまいます。
管理者が現場を掌握し、マニュアル化が進んでいて、社長が抜けても自走できる組織になっているかどうかが評価されます。
5. 成約までのフローと、落とし穴になる「デューデリジェンス」
M&Aは通常、半年〜1年程度の期間を要します。特に重要なのが「買収監査(デューデリジェンス)」です。
- 準備・アドバイザー契約: 決算書等の整理、秘密保持契約。
- ノンネーム打診: 社名を伏せた状態で買い手候補に概要を提示。
- トップ面談・基本合意: 経営者同士の相性確認、大枠の条件合意。
- デューデリジェンス(DD): 【最重要フェーズ】
買い手側が選定した会計士・弁護士・社労士が入り、財務・法務・労務を徹底的に調査します。ここで「未払い残業代」や「運営基準違反」が発覚すると、価格の大幅減額や破談(ブレイク)につながります。 - 最終契約・クロージング: 株式または事業の譲渡、決済。
- 統合作業(PMI): 新体制での運営開始。
6. 失敗しないための注意点とパートナー選び
最後に、M&Aを成功させるための鉄則をお伝えします。
情報は「墓場まで持っていく」覚悟で管理する
M&A検討中であるという情報が従業員や利用者に漏れると、「身売りされるらしい」「経営が危ないのか」と不安を煽り、一斉退職や利用者離れを引き起こします。こうなると事業価値は毀損し、M&A自体が不可能になります。
情報は経営陣のみで留め、アドバイザーとの連絡も慎重に行う必要があります。
「福祉専門」の仲介会社・専門家を選ぶ
一般的なM&A仲介会社は、福祉特有の「指定基準」「加算要件」「処遇改善加算の処理」などを理解していないことが多いです。
「利益は出ているが、人員配置基準違反のリスクがある」といった機微を見抜ける、障害福祉業界に精通した専門家をパートナーに選ぶことが成功への近道です。
まとめ:高く売れる事業所とは、「誰もが経営したくなる」良い事業所のこと
障害福祉事業所のM&Aは、単なる金銭取引ではありません。地域に必要な社会資源を未来へつなぐ、尊い経営判断です。
M&Aを成功させるための「高値売却」の秘訣は、実はシンプルです。
「稼働率が高く、コンプライアンスが守られ、スタッフがイキイキと働いている」。
つまり、「いつか売るため」の準備をすることは、そのまま「現在の経営を良くすること」に直結します。
「うちはまだ売るつもりはない」という経営者様も、一度「もし今売るとしたらいくらになるか?」「買い手から見て魅力的な事業所になっているか?」という視点で、自社の経営(特に集客力と組織力)を見つめ直してみてはいかがでしょうか。
その日々の積み重ねが、将来のあなたと事業を守る最強の盾となるはずです。
